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怪文書と技術ネタ

【書評】米原万里『打ちのめされるようなすごい本』(文春文庫)

書評の書評、というのも変な話だが、いろいろと思うところがあったので書くことにする。あとは、文章を書くリハビリを兼ねて。

著者は2006年にがんで逝った日本のロシア語通訳の泰斗。共産党の要職にある父親のもとに生まれ、プラハでソヴィエトの教育を受けた類まれな経歴の持ち主である。帰国後の経歴も凄いのだが割愛。

文学と猫を愛し、がんと闘いながらも数多くの書評も物した……と書くと美談に聞こえるのだが、そんな綺麗なものならわざわざ「思うところ」が出てくるはずもない。

なぜ「思うところ」が出てくるのか。それはやたらと言葉が引っかかるからだ。文学作品の批評は評者一流の気遣いで美しく言葉が綴られているのに、少し世評や政治が絡むと「現代日本の病巣」だの何だの、老害が好んで用いる現代批判の常套句が出てきてゲンナリする。本にかこつけて自分のイデオロギーを披瀝したくてたまらないのか、と勘ぐってしまう程度に言葉が引っかかる。

たとえば丸谷才一評などは、著者の繊細な感性が非常によく出ていて、丸谷才一を読みたいな、という気分にさせてくれる。丸谷才一『恋と女の日本文学』の書評を引用しよう。

さて、『恋と女の日本文学』の話に戻りますが、語り口はあくまでも軽やかまろやかで、随所にウィットとユーモアがあるから、自然科学の分野ならばノーベル賞級の大発見を、こんなに楽々と手に入れていいものだろうかと、読み進めながら何だか一抹の罪悪感のようなものまで感じてしまった。

良い本なのに「罪悪感のようなもの」とは一体何なのだろう。気になる。読んでいなくても感想が繊細に伝わってくる一文だ。

対して、井上ひさし『東京セブンローズ』の書評がちぐはぐだ。

国家権力が瓦解し、それを支えてきた権威も大仰な主義主張も色褪せた時期、国とは、民族とは、言葉とは……どれもが切実に迫ってくる問題だ。思えば、まさにこの時期に、世紀末にあえぐ今の日本と日本語と日本人の基本的あり方が形作られていったのだ。

こういうノリが好きでないというのもあるが、手垢のついた言葉のオンパレード。著者の繊細な感覚とは程遠い、適当とも言える言葉だ。というより、不得意な分野に対しては基本的に評が雑なのに、なまじ文学に精通しているぶん他の分野についても理解できる、という傲慢さえ目につく。この傲慢は医者にがんへの持論をぶつけるあたりに見て取れる。

それでも、である。文学作品の書評は一級なのだ。『コーカサス金色の雲』も、政治に対する目線が雑であったが『東京セブンローズ』も、どれも紹介されている本を読みたくなる評論の数々。積み本の存在を思い出さなければその場でAmazonを開いて注文したくなってしまう。他人の欲望を掻き立てる難しさというのはよく分かるから、本当に凄いと思う。

だからこそ、凄い能力を持っている人が古臭いイデオロギーエセ科学に染まってしまうさまに怒りすら感じてしまうのだろう。

ちなみに著者が敢えて常套句を使いたがる理由は後々きちんと述べられているのだが、理解はできるが納得のできるものではなかったことを付け加えておく。